1.  フラメンコとの出会い

 

 

 

 

 

皆さんはフラメンコをご存知ですか?

 

 

 

私がフラメンコと出会ったのは、高校卒業後に上京し、舞踊科のある短大に進学した時です。その学校での授業のひとつにフラメンコがあったからです。

 

 

 

子どもの頃からバレエを習い、ダンスといえば他のジャンルでも興味があったのですが、新潟ではフラメンコに接する機会が全くなく、その時初めてフラメンコを知ったようなものです。

 

 

 

初めての授業の時登場したきた先生は、50代位でスレンダーな身体つき、長い黒髪に目鼻立ちがはっきりしていて、エキゾチックでまるでスペイン人のようでした。

 

 

 

フラメンコのイメージがその先生を見ただけで頭に浮かんでくるほどです。

 

そして目の前で踊る先生の動きはまるで魔法のようで、何もかもが新鮮で、斬新で、別世界のものに見えました。

 

 

 

ところがその先生、後々知ったことですがなんと新潟の十日町出身とのことでした。

 

 

 

イメージから始まったフラメンコも、やっていくうちに興味深くなり、もっと知りたくなり、色々な舞台を見たりしていくうちにすっかり虜になっていました。

 

 

 

そして学校以外でも先生の教室に通い、卒業公演に向けてフラメンコに没頭する日々が続きました。

 

 

 

両親に「卒業公演はフラメンコを踊ることにしたわ。」と伝えると、「何それ?」と言われ、どんなものかと知ってもらうために、東京に来た際にフラメンコが観られるレストランに連れて行ったことがあります。

 

薄暗い店内で汗を飛び散らしながら踊るダンサーを観て、その迫力に感動していたものの「なぜ自分の娘がよりによってフラメンコなのか?」と首をかしげていました。

 

その頃はジャズダンスやエアロビクスが流行し始め、それを知った父は

 

「どうして今どきのことをやらないのか?フラメンコなんて誰もやらないよ。」とも言われました。

 

 

 

しかし、すでに私の心はフラメンコに夢中・・・

 

そして、卒業したらすぐに本場のスペインへ!と気持ちが高ぶっていたのです。

 

 

 

でも、そうは上手くいくはずがありません。

 

あまりにも想定外の娘の進路に、戸惑う両親を説得するには時間が必要でした。

 

 

 

というわけで、卒業後は新潟にとりあえず戻り、まずはフラメンコを知ってもらおう!というところから始めることにしたのです。

 

 

 

今思えば、この時自分の我を通して勢いで行動していたら人生変わっていたかもしれません。

 

そしてその時どちらを選択していた方が良かったのかはわかりません。

 

だからこそつくづく運命を感じます。

 

 

 

そして、私の新潟でのフラメンコ人生がスタートしました。

 

 

 

 

2  恩師との出会い

 

 

 

 

 

私は4歳頃からバレエを習っていました。

 

5歳年上の姉が習っていた影響で、自分も習いたいと両親にせがみ五十嵐瑠美子洋舞踊研究所に入門しました。

 

 

 

この時を機に、私のダンス人生が始まりました。

 

 

 

五十嵐瑠美子先生は新潟でバレエ教室を始めてから50年を越える大ベテラン、新潟の洋舞踊界で多くの力を注ぎ貢献されている重鎮であります。

 

 

 

私が子どもの頃での印象は、いつも背筋が伸びていて、凛として、厳しく、そしておおらかで、明るく、なんと言っても頼りがいのある先生でした。

 

それは今も全く変わらず、大変元気で活躍していらっしゃいます。

 

 

 

私が東京から戻りフラメンコを新潟で始めようと決意したのも、五十嵐先生の助言があってのことでした。

 

「何もないところから始めるのに意味がある。誰もやろうとしないことをやることが大切。あなたが新潟のフラメンコの草分けになりなさい。」

 

まだ、意思がはっきりとしない私にはあまりにも大それたことでした。

 

 

 

しかし、不安ながらのスタートに先生は背中を押してくれたのです。

 

これは私にとって大きな力となりました。そして24年経った今に繋がっています。

 

 

 

五十嵐先生のご協力で、私は先生の教室でフラメンコを教え始めました。

 

とは言っても最初の生徒はたったの2人、ベニヤ板をそれぞれ1枚ずつ敷いて1週間に一度だけのレッスンでした。

 

それ以外は、先生のお手伝いでバレエ教室の子どもたちを教えたり、自分のレッスンをしたりの日々でした。

 

 

 

今思えば、この頃に先生の傍らで指導者としてのノウハウを学びとることができ、その後の自分への糧となる大切な時間でした。

 

 

 

「人生うしろを振り向く暇があったら、前を向いて進みなさい。」

 

先生がおっしゃっていた言葉です。

 

 

 

そして、ダンスだけではない、人として、女性としての生き方を常日頃教えてくれたのも先生でした。

 

 

 

先生らしいエピソードがあります。

 

信号待ちしている時姿勢が悪い人や、道で歩き方が下手な人を見ると、構わず注意してしまうそうです。

 

外出先で行ったトイレが汚れていると、思わず掃除してしまうそうです。

 

私はそんな先生が大好きです。

 

 

 

誰にも媚びず、自分の意思で前向きに生きている先生はとても素敵です。

 

 

 

こんな恩師に出会えたことにとても感謝しています。

 

 

3  目標に向かって

 

 

 

新潟にてフラメンコの指導を始めたのは20歳の時でした。

 

案の定、新潟でのフラメンコの認知度は低く、というより『無』の状態でした。

 

 

 

すぐにでも実現したかったスペイン行きはしばらくおあずけで、まずは地盤作りから始めたのです。

 

 

 

短大を卒業し、東京から帰郷したばかりだったので、社会にも出たことのない、世間知らずの娘でした。

 

そんな人間が人様から先生と呼ばれ、今思うと申し訳ない限りです。

 

 

 

最初はたった二人だった生徒も少しずつ増えてきたものの、仕事といえるほどのものではありませんでした。

 

親元にいたおかげで住むところはあり、食べることはできましたが、自活できるわけでもなく、スペインへ行く資金を貯金するどころの話ではありませんでした。

 

 

 

その頃、同年代の友人たちは学生を終えると各々の仕事を見つけ就職するのがあたりまえでした。

 

ちょうどバブル時代の始まりと重なり、ブランドのバッグを持ち、車を持ち、ボーナスをもらっては海外旅行に行き、遊びも仕事も絶好調の人がほとんどでした。

 

 

 

例外もいましたが、私ほどの例外は周りを見渡してもいなかったような気がします。

 

 

 

それでも、いつか近いうちにスペインへ行くぞ、という目標があったからこそ明るく過ごせたようなものです。

 

 

 

しかし、スペイン貯金どころの話しでない私はアルバイトを始めました。

 

工場、デザイン事務所、法律事務所、内職など、知り合いの方々からご紹介いただき、それぞれの場で社会勉強もさせていただき、資金繰りも少しずつですができるようになりました。

 

 

 

そして4年後、24歳の時にようやくスペイン行きが実現しました。

 

 

 

人というのは目標があるとないとでは、日々の生活の張りが違うような気がします。

 

別に大きな目標でなくてもいいのです。

 

例えば、来月旅行に行く、来週コンサートに行く、明後日友人と食事に行く、今夜趣味の習い事に行く、どんな些細なことでも目的があるだけで生き生き暮せるのではないでしょうか?

 

 

 

若い頃はがむしゃらに夢に向かって行けたけれど、年を重ねるごとに色々なしがらみや気力と体力の衰えも感じ、現実を生きるのが精一杯になってきます。

 

でも、小さなことでいいから目標を持って生活することは老いも若きも可能だと思います。

 

 

 

皆さんは何か目標を立てて過ごしていらっしゃいますか?

 

 

 

私はとりあえず、この【朝の随想】を半年間無事にやりとおすことが今の目標です。

 

 

4  憧れの地、スペインへ

 

 

 

日本で海外旅行が自由化されたのが、1964年、今から44年前、私が生まれた年でもあります。

 

現在ではその頃の約100倍の人が海外へ行くようになったそうです。

 

 

 

私が初めてスペインへ行った年は1984年、海外へ渡る人が上昇し続けている真只中でした。

 

その後、バブル景気と円高の勢いにのり、海外旅行ブームを向かえ、それから現在までの20年間で約3倍以上に増えました。

 

 

 

今となっては海外へ行ったことのない人の方が少ないくらいでしょうか?

 

 

 

一人旅はもちろんのこと、海外旅行も初めてだった私は、ただ本屋に並ぶ旅行ガイドブックを頼りに『憧れの地、スペイン』へ向かう準備をしていました。

 

 

 

言葉はもちろんスペイン語です。

 

英語なら得意ではなくても学校で学んだ程度は知っていたものの、スペイン語となると全くわかりません。

 

とりあえず、NHKの『スペイン語講座』にお世話になりました。

 

申し訳ないですが、果たして効果はあったかどうかは・・・お答えしないでおきます。

 

 

 

乗ったこともない航空会社の格安チケットを購入し、使ったことのないトラベラーズチェックを持ち、真新しい大きなスーツケースと共にいざ出発。期待と不安でいっぱいでした。

 

 

 

乗った飛行機はスペインへ直行でない為、他の国でトランジットをしなくてはならず、冷や汗をかきながら何とかスペインに到着しました。

 

 

 

その気になれば何とかなる、ということと、学校で学んだ英語はちっとも役に立たなかったことを知りました。

 

言葉は、相手に話しかける勇気と力、そして表現力ですね。

 

 

 

初めて降り立ったスペインの印象は、まるで映画の世界のようでした。

 

見たことのない人、建物、感じたことのない空気に包まれ、正真正銘の別世界が私を待っていました。

 

 

 

スペインはヨーロッパの南西部に位置し、ヨーロッパ内では3番目の面積を持つ国で、日本より少し大きな国です。

 

 

 

しかし人口密度は日本の4分の1、イベリア半島の大部分を占めているので海に面している都市が多く、川と山脈と平野をたくさん持っています。

 

何となく日本に似たような環境ですね。

 

 

 

昔はフランコによる独裁政権だったのですが、現在は国王を持つ王国です。

 

しかし、国王は象徴であり、政治は民主化されていて、国民の選挙によって選ばれた議員たちによって国を動かしています。

 

こういった面も、日本と同じような環境ですね。

 

 

 

だからでしょうか・・・最初は別世界のように感じた国スペインが、すぐに居心地の良い国になっていったのです。

 

 

5.彩り豊かなセビリア

 

 

 

 スペインの南に、アンダルシア地方最大の都市であるセビリアという街があります。

 

フラメンコが盛んなところであり、フラメンコを学ぶほとんどの人がセビリアを訪れます。

 

私も、このセビリアに暮していました。

 

 

 

スペイン国内で4番目の人口をもつこの街は、何不自由なく暮せる都市でありながら、しっかりとスペインらしい情緒も感じられる美しい街でもあります。

 

 

 

100年以上かけてつくられたという、スペイン最大の大聖堂カテドラルはセビリアの中心街に位置しています。

 

この教会にはコロンブスの墓が安置されていて、中に入ると荘厳な空気に包まれ、巨大なステンドグラスの美しさには圧巻です。

 

その横に建つ、高さ75メートルのヒラルダの塔はセビリアのシンボルとなっています。街のいたるところから眺められ、夜になるとライトアップされ、より美しさを増します。

 

その隣には大きな美しい庭園を持つ宮殿アルカサルがあります。

 

これら全てが世界遺産でありながら、賑やかな中心街にしっくりと溶け込んでいます。

 

 

 

スペインのアンダルシアといえば白壁に石畳の狭い路地・・・

 

街の中心の繁華街から少し脇道を入っただけでひっそりとした住宅街に出くわします。

 

窓辺にはゼラニウムの赤い花やブーゲンビリアが咲き、パティオと呼ばれる中庭にも色とりどりの植物が溢れ、ガイドブックや絵はがきで見るそのままの風景が目に飛び込んできます。

 

 

 

スペインの日中の太陽の日差しは強烈なため、道を狭くすることによって陰を多くし光を遮り、太陽の熱を吸収しにくくするために白い壁が多いのです。

 

そのせいか車もほとんどが白っぽい色ばかりで、黒っぽい車はあまり見かけません。

 

 

 

街中のほとんどの街路樹はオレンジの木で、濃い緑の葉と共に白い花をつけたり、オレンジ色の実をつけたり、一年中街を彩っています。

 

 

 

公園もたくさんあり、大きな木々に囲まれ緑も豊富で、人懐っこい白い鳩がくつろいでいます。

 

 

 

セビリアというと『セビリアの理髪師』を思い浮かべる方が多いようです。

 

セビリアを舞台にした代表的なオペラの一つで、他にも有名な『カルメン』があります。

 

『カルメン』に出てくるタバコ工場はセビリア大学の校舎として今でも残っています。

 

そして同じくオペラ『カルメン』の舞台となったマエストランサ闘牛場は18世紀につくられてから今も伝統的な闘牛場としてそのまま残っています。

 

 

 

歴史的な建造物と自然が街のいたるところに残る中、繁華街には流行のファッションで身を包んだ若者が溢れ、近代化も進んでいます。

 

ところが、これらがうまく共存できているのです。

 

 

 

それはきっと、街への愛着と尊敬が、この美しい街に生まれ育っている間に自然に身についているからでしょう。

 

 

 

セビリアに暮す誰もが、「この街が一番!」と思っているような気がします。

 

 

6.マイペースなスペイン時間

 

 

 

スペインで暮し始めたばかりの頃は、環境の違いや人々の性質の違いに戸惑うことばかりでした。

 

言葉の違いから、思いが伝わらずにイライラしたこともあります。

 

 

 

しかし、その国にいる以上そんなことも言っていられません。

 

まさしく「郷に入ったら郷に従え」です。

 

 

 

 スペインの朝は日本と同じように通勤や通学の人達の交通ラッシュで始まります。

 

その後、家族を送り出した主婦たちがスーパーや市場へ買い物に出掛け、外は近所の奥様たちの買い物ラッシュとなります。ここは話し好きのスペイン人、道すがら立ち話に夢中になる人や、ベンチに腰掛け井戸端会議するお年寄り、バルといわれるカフェテリアに入りコーヒを飲みながら世間話をする人などでいっぱいになります。

 

 

 

その後、午後二時くらいからほとんどの店が一旦閉まり、家に戻りゆったりとした昼食をとります。日本とは違い、時間がたっぷりあるこの昼休みにゆっくり会話をしながら食事をし、シエスタといわれる仮眠をとり、また5時くらいから店が開き仕事が始まり、その日二回目の通勤ラッシュをむかえるのです。

 

そして夜になると再び帰宅ラッシュがあり、繁華街に繰り出す人や、近所のバルでビールを飲みくつろぐ人など、皆が思い思いに一日の終わりを過ごしています。

 

日暮れが遅く、商店は9時くらいまで開いているので、平日の夜でもショッピングに興じる若者で街はいつも賑やかです。夕食は10時くらいからお酒とおつまみ程度で簡単にすませます。

 

 

 

働いただけ思い切り遊び、どんなに夜更かししても、翌日は元気に過ごすタフさはスペイン人の特徴でもあります。

 

 

 

日本のようにバスや電車の中で居眠りしている人も見たことがありません。

 

スペインの国内線の飛行機に乗ったときも眠っている人どころか、あまりにも飛行機の中が話し声でうるさくてびっくりしたことがあります。

 

 

 

このお喋り好きな人達のせいで、日常待たされることが多々あります。

 

買い物に行くとレジ前が行列していても、お店の人と話しが弾むと一向に前に進まないのです。

 

それでも文句を言う人がいるわけでもなく、急いでいる様子もありません。

 

 

 

スペインでは早足や走っている人は泥棒だけ、と言われるくらい道で急いでいる人を見かけません。

 

時間に遅れても、皆色々な言い訳を言って悪びれた様子もなく、時間に曖昧なのは大きな問題ではないようです。

 

 

 

ある日、流しの水道管が水漏れして修理を頼んだところ、業者の方に「すぐに行く」と言われてから実際に来るまでに丸三日かかったことがあります。

 

 

 

最初は、何においても時間に曖昧なことに苛立っていたのですが、そんなことは仕方ない、これが当たり前なのだと思えるようになりました。

 

 

 

何をするにも、マイペースで、自由で、明るく、ストレスとは無縁の人達が多いようです。

 

 

 

日本の現状から比べると、本当に羨ましい限りです。

 

 

7.バルセロナの建築家ガウディ

 

 

 

 スペインへ行ったら是非行っていただきたい都市にバルセロナがあります。

 

 

 

バルセロナはスペイン北東部に位置し、同じスペインでも南のアンダルシア地方とは違った特色を持つカタルーニャ地方にあります。

 

首都マドリッドに次ぐ二番目の都市で1992年のバルセロナオリンピック開催を機にすっかり近代化が進みました。

 

 

 

とはいえ、このバルセロナには歴史に残る素晴らしい芸術作品があります。

 

その中で特に有名なのはスペインが生んだ偉大なる建築家アントニオ・ガウディの建築物の数々です。

 

 

 

その一つサグラダファミリア教会は、ガウディの生涯をかけた代表作品であります。

 

73歳でこの世を去る直前まで製作にあたっていたものの生存中に完成はできませんでした。

 

 

 

その後、ガウディ亡き後も製作が続けられていますが、着工から長い年月が経っている為、建築と並行して修復も行われ、完成まであと200年以上かかるとも言われています。

 

未完成とはいえ、現段階でも充分素晴らしい建築物であり、歴史に残る作品としてバルセロナの街に堂々とそびえ立っています。

 

 

 

ガウディは他に、グエル公園、カサ・ミラ、カサ・パトリョなども設計し、それら全てが個性的で見事な芸術作品として残されています。

 

 

 

ガウディの作品は写真やテレビなどで目にしたことはありましたが、実際に生で見た時は、あまりの迫力に圧倒され、感動のあまりしばらくその場に立ちすくんでしまいました。

 

全てが想像を超えた作品ばかりで、言葉で表現するのは非常に難しいです。

 

それこそ「百聞は一見にしかず」です。

 

 

 

どう考えても、費用や工期など全く気にせずに作られたのでしょうし、それだからこそ自分の思うままに極限まで表現し続けられたのでしょう。

 

 

 

そして、ガウディの作品は今も多くの芸術家たちに影響を与えています。

 

しかし、彼のように何も得ようとせずただひたすら自分の表現したいものを追及し続けることができるかどうか・・・

 

現在の建築家の誰しもが羨ましく思うでしょうが、それを成し得ることは難しいでしょう。

 

私も芸事にたずさわる端くれの一人ですが、それは幸福でもあり苦しみでもあるような気がします。

 

 

 

ガウディの晩年は創作活動に没頭し、身なりにも気遣わずにいたため、路面電車にひかれて亡くなった時は偉大なる芸術家と気づかれなかったのだそうです。

 

その後、彼の亡骸は彼の全てを注いだサグラダファミリア教会に埋葬されました。

 

世界中から集まってくる観光客たちが自分の作品に感動する姿を彼はどう感じているのでしょうか?

 

果たして彼はこのサグラダファミリアの完成を望んでいたのでしょうか?

 

一生かけても完成できないことをわかっていながら、というより完成させるつもりがなかったのかもしれませんね。

 

 

 

それでも、自分の感性と知識と技の全てを注ぎ込んでいたとなれば、これぞ『真の芸術家』の本望だったのでしょう。

 

 

 

 

8.グラナダの想い出

 

 

 

 スペインのグラナダには有名なアルハンブラ宮殿があります。

 

 

 

スペイン滞在中に一度は行きたいと思い、その時に暮していたセビリアからバスに乗りグラナダに向かった時がありました。

 

その時、知人の親戚のおじさんがグラナダに移住した話を聞いていたので、まずはそのおじさんの元を訪ねてみました。

 

 

 

その方は、とうに70歳を過ぎ、老後を過ごすべく単身でスペインへ渡り、グラナダを終の棲家として選び、独りで余生を過ごしていらっしゃいました。

 

 

 

丘の小高い、グラナダの景色が一望できる一軒家は独り暮しにはとうてい広すぎるように思えましたが、「人づてに色々な日本人がやってくるから寂しくないよ」、と嬉しそうに話していらっしゃいました。

 

 

 

グラナダは美しい情景がたくさんあり、風景画を描くにはとてもよい環境であるため、日本から画家を志す人が多く訪れているらしく、そのおじさんの家はそういった人達の常宿にもなっていたのです。

 

でも、宿代などは一切受け取らないため、その人達が心からのお礼をこめて家の修繕や片付けなど、おじさんが独りでは行き届かない雑用を請け負うなどをして一宿一飯の恩義をしていました。

 

 

 

初対面である私のことも、とても親切に迎えてくださり、おじさんは手作りの日本食を振舞ってくださいました。

 

グラナダの美しい景色を眺めながらテラスでいただいた久々の日本の味は格別で、心が和みました。

 

 

 

定年後を外国で暮すリタイアメント移住の場に、スペインを希望する日本人が多いと聞いたことがあります。

 

気候が良く過ごしやすく、環境も良く、スペイン人は明るく親切で人なつっこいので、悠々自適に老後を過ごすには適しているのかもしれません。

 

しかし、英語ほど馴染みのないスペイン語圏という、言葉の壁が難しい問題となるでしょう。

 

 

 

このおじさんはスペイン語を流暢に話すほどではありませんでしたが、近所の子どもたちに日本語を教えながら、日本の話しを聞かせたりして、積極的にコミュニケーションをとっていました。

 

そうやって色々な現地の人たちと関わっているうちに、心が通い合い、言葉も通じ合っていったのだそうです。

 

 

 

日本は高齢化が進んでいます。そして、自分自身もやがて老後を迎える時がやってきます。

 

その時、グラナダで出会ったおじさんのように生き生きと悠々と過ごす意欲を持つことができたら、そしてそんな環境が日本にも存在することを願うばかりです。

 

 

 

話しはもどり、アルハンブラ宮殿に向かう時、おじさんがおにぎりを作って持たせてくれました。

 

憧れのアルハンブラ宮殿の中にある庭で、美しい景色を眺めながら、青い空の下で食べたおにぎりが最高に美味しかったことは生涯忘れられません。

 

 

 

そして、念願かなって訪れたアルハンブラ宮殿の思い出は、おじさんのおにぎりの味となりました。

 

 

9.国境なき友情

 

 

 

 子どもの頃、外国人を見かけると妙に緊張してドキドキしたことを思い出します。

 

 

 

今では留学や仕事や結婚など色々な形で日本に移住している人や観光客も増えていて、外国人を見かけることは珍しくも何ともなくなりました。

 

 

 

しかし、自らが海外へ出向き、その国で自分が外国人として見られること、国籍の違う人と接することなど想像がつきませんでした。

 

 

 

私のフラメンコの師匠は、セビリアで有名なフラメンコ舞踊家であるホセ・ガルバンという男の先生です。

 

踊りというと女性的なイメージがありますが、フラメンコの大御所は男性舞踊家にも多く、スペインでは有名な男性ダンサーがたくさん存在します。

 

 

 

スペインへ行き、最初に見学に行った先がホセの教室で、「他を見学してから決めたい。」と上手く伝える語学力がなかったのと、彼のインパクトの強さに惹きつけられ、即座に入門しました。

 

 

 

本場のフラメンコダンサー、ましてや男性となれば想像しただけでドキドキしそうですが、現実はお腹の出っ張った、人の良さそうな、どこにでもいそうなメタボおじさんです。

 

 

 

しかし、いざ踊りだすと凄まじいスピードで足が動き、切れのある身のこなし、そしてなんと言っても内から湧き出るエネルギーと表現力は、私がそれまで日本で学んでいたフラメンコが一気に打ち消される勢いでした。

 

 

 

やはりフラメンコは本場で学ぶべきものだと再認識させられ、初心に戻りレッスンを受けはじめました。

 

 

 

ホセの教室には地元の子どもたちがたくさんレッスンに通ってくるので、私はその子どもたちに混じり、同じ目の高さでフラメンコを学びました。

 

 

 

そんな中、ホセや子どもたちの父兄には随分お世話になり、身の回りのことを教えてくれたり、食事の準備を手伝ってくれたりと、子どものように甘えさせてもらいました。

 

 

 

おかげで、早くに現地の生活に馴染むことができ、地元の料理も覚えることができ、そして何と言っても外国人である私を家族のように扱ってくれたことは、とても貴重な経験であり、本当にありがたいことでした。

 

 

 

ホセは「フラメンコに国境はない。」と言い、外国人の生徒にも分け隔てなく接し、スペインの生徒たちと同じように日本人の私にも熱心に指導してくれました。

 

 

 

遠く離れた異国で、子どもの頃抱いた外国人恐怖症は、一気に払拭され、どんなに遠く離れていて、国籍が違っても、心が通い合い、信頼でき、友情が芽生え、それが生涯の宝となることを知りました。

 

 

 

最初のスペイン滞在を終え日本に帰るとき、一緒にフラメンコを学んだ子どもたちやその家族に見送られ、たくさんの涙を流しました。

 

別れは悲しい、でも出会いは素晴らしい、それは国境なき友情へのかけがえのない涙でした。

 

 

10.スペインから見た日本

 

 

 

 現在の日本は本当に便利で、豊かで、安全で、恵まれた国であることをつくづく感じます。

 

これは、スペインで暮してから切実に思うようになりました。

 

 

 

スペインの駅には改札がありません。自分で乗る列車を探し、ホームへ行き、出発時間までに乗りこみます。

 

出発まであと何分だとか、どこ行きだとかのアナウンスは全くなく、時間になると静かに動き出します。

 

降りる時も、あとどれくらいで到着とかのアナウンスがないので、降りる駅が近くなったことを自分で確認して降りなくてはなりません。

 

バスもそうです。ちゃんと外を見て、降りるところを確認していないと、乗り過ごしてしまいます。

 

 

 

タクシーは、自動ドアではないので自分でドアを開けて乗ります。降りた後、つい癖でドアを閉め忘れ、運転手さんに注意されたことが何度もあります。

 

 

 

スペインから見たら日本は過保護すぎるのかもしれませんね。

 

 

 

デパートや、街なかの大きな店などは、必ず入り口に防犯用の感知器があり、警備員が立っています。警備員がいないような小さな店は入り口が閉まっていることが多く、ガラス越しにお店の人が来た人を確認して、鍵を解除してもらってから入ります。

 

 

 

スーパーには大きなカバンを提げて入ることはできません。入り口にクローク、もしくはコインロッカーがあり、そこに預けてから買い物をします。

 

 

 

自動販売機はありません。もし日本のようにどこにでもあったら、すぐに壊されてしまうでしょう。

 

公衆電話も、壊れていないのを探すのに一苦労です。

 

 

 

スペインから見たら、日本は本当に安全だということがよくわかります。

 

 

 

スペイン人から見ると日本の電化製品、ゲームソフト、アニメ、空手など、興味深いことがたくさんあるようです。

 

ビデオやカメラなど私が持っているものに「日本製?」と必ず聞いてきて、すぐに欲しがります。

 

日本のアニメは大変な人気で、こちらでもお馴染みのアニメキャラクターがむこうのテレビではスペイン語の吹き替えで喋っているのが妙に可笑しいです。

 

主題歌は日本語のままなので、それを子どもたちに歌ってあげると、羨望のまなざしで見られ、たちまち人気者になってしまいます。

 

 

 

日本の時代劇もよく放送されています。ある日、テレビで見た侍が食事中に飛んできたハエを箸で捕まえたのが凄くかっこよかったと言い、箸の使い方を教えてくれと言ってきた青年がいました。

 

いくら日本人でも、ハエは捕まえられないと言うのを全く聞き入れず、必死に箸の持ち方を練習していました。

 

 

 

日本人男性は皆、空手ができると思っているらしく、意外にも強いイメージがあるようです。

 

スペインで町内のお祭りがありフラメンコショーに出させてもらった時のことです。なんと、フラメンコの前座は空手ショーで、地元の空手教室に通う人たちが空手着を着て誇らしげに舞台に上がっていました。

 

その舞台袖でフラメンコ衣裳を着た日本人の私が、出番待ちしているとは…何とも不思議な気持ちでした。

 

 

 

スペインから見た日本人は、器用で、真面目で、賢く、強くて、なかなかの好印象のようです。

 

 

11.命名

 

 

 

 最近の子どもたちの名前を見ると、とてもお洒落な名前が多く、ふり仮名がなくては読み方が複雑な名前が多くなってきたような気がします。

 

 

 

なるべく個性的でその子らしい名前をつけようと親御さんたちが一生懸命考え出した賜物なのでしょう。つくづく感心してしまいます。

 

 

 

私事ではありますが、うちには平成生まれの息子が二人います。

 

長男は健太郎、次男は康次郎、二人合わせて『健康』、単純そのものです。

 

この名前を知った近所のおばあさんに「あんたはハイカラなことしているのに、ずいぶん古風な名前をつけたねえ。」と言われたことがありました。

 

 

 

確かにそうですね。でも、子どもが生まれた時にどんな子に育って欲しいかと考えた時、ただただ健康であって欲しい、としか思い浮かばなかったのです。

 

一応、名づけの本や、画数の本など一通り見てはいたのですが、結局他の考えが全く浮かばなかったまでです。

 

 

 

私の『正子』という今では非常に古典的な名前は、父の名前の一文字から取り、下に『子』を付けただけの最も単純極る名付け方法だったようです。

 

子どもの頃は、漫画の主人公のようにお洒落な名前に憧れたこともあります。

 

 

 

しかし、名前というのは自分が決めるのではなく、この世に命を授かった時の親たちが、色々な思いを込めて付けられるものです。

 

まさしく命の名前、命名です。

 

 

 

結局、自分の名前に不満を抱いたことのある私も、親となり、単純で古風な名づけをしていました。

 

というのも、父の名の一文字を授けられた私は、父の分身のごとく大変可愛がられ、愛情いっぱいに育てられました。命名の時の、父が私へ託した思いがわかるようになり、それからはこの名前が好きになりました。

 

 

 

そういえば、スペインでは親の名前と同じ名を付けることができるので、一文字どころか全く同じ名前の親子が結構います。

 

そして、名前の種類も日本ほど多くないようで、同じ名前の人がたくさんいます。

 

 

 

日本は少子化が進み、一人っ子が多くなっていることもあり、我が子への思いも大きく、名づけにも力が入るのでしょう。

 

それゆえ、名前の種類も増え、個性的で素敵な名前が多くなっているのかもしれません。

 

 

 

そう考えると、本当に私は簡単に我が子の命名をしてしまったなあ、と反省してしまいます。

 

でも、今でも彼らへの望み『健康であれば』という気持ちは変わりません。

 

ありがたいことに、すくすくと健康に育ってくれたのは、この名前のおかげかな?と思うことにします。

 

 

 

親たちは皆、我が子に色々な思い、希望を託し、心を込めて名前を付けるのです。

 

その命が何よりも大切で、いとおしく、尊いものであるか、計り知れません。

 

生まれたばかりの命は、人生最初にプレゼントされた名前と共に一生を歩んでいくのです。

 

 

 

授かった命、授けられた命を皆で大切にしていきたいですね。

 

 

12.夫婦別姓

 

 

 

 数年前に夫婦別姓案が取り上げられ、民法改正かといわれてから、その後どうなってしまったのでしょうか?

 

 

 

私はこの夫婦別姓制度を心待ちにしていた一人です。

 

というのも、結婚前から続けていた仕事での名前をそのままにしておきたかったのと、事務上の手続きの面倒がわずらわしかったからです。

 

そして、自分の両親から切り離されるような理不尽な寂しさと、なにより、何々家に嫁ぐという古臭い結婚の形に抵抗があったからです。

 

 

 

しかし、結婚したからには日本の戸籍はどちらかの姓に統一しなくてはならず、私も一般的に夫の姓となりました。

 

 

 

戸籍上は夫の姓とはいえ、仕事上は旧姓のままにし、ほとんど名乗るときは『小島』をとおしていますが、不便なことはたくさんあります。

 

 

 

まず、病院や役所や銀行など身分証明書を提示しなくてはならない場では、夫の姓であり、結婚して18年も経った今でも、公の場で呼ばれる時や名乗る時は違和感を覚えます。

 

 

 

それに、子どもが生まれるとどうしてもこの問題は回避できません。

 

もちろん子どもたちは夫の姓を名乗り、学校へ行くようになると私もそのお母さんとして呼ばれます。

 

 

 

我が家の表札は二つの姓が記され、私を旧姓のまま呼ぶ人がほとんどなので、子どもの関係の方から不思議がられることがよくあります。

 

 

 

子どもたちは物心ついた時からこういうものだと当たり前に思っているようですが、傍から見たら苗字の違う両親は変に思われても仕方ないでしょう。

 

 

 

まだ息子が小学校へあがったばかりの頃、学校で文字を書く練習をしたプリントを持ち帰ってきた時のことです。

 

そこにはお父さんの氏名とお母さんの氏名を書く練習問題があり、うちの息子は私の名を旧姓のまま書いてあり、困惑したことがありました。

 

でも、だからといって苗字が違うことに子どもから何か問われたことは一度もなく、今も当たり前のように受け入れくれています。

 

 

 

スペインでは結婚しても夫婦は別姓のままで、その子どもには父親の姓と母親の姓を両方付けます。

 

これは非常に合理的だと思います。

 

お隣の国、韓国や中国も夫婦別姓のようです。

 

 

 

日本もいつか夫婦別姓制度になるのでしょうか?

 

 

 

現在の少子化時代の子どもたちが将来結婚する頃は、一人娘も多く、嫁ぐことによって苗字が変わることを望まない人が益々増えてくることでしょう。

 

夫婦別姓になれば、嫁に入るとか婿になるとかの問題もなくなるのではないでしょうか?

 

 

 

そして、晩婚化により苗字への愛着心も強くなっていることでしょう。それに結婚後も変わらず仕事を持ち続ける女性が増え、そのままの苗字を望む人も多いでしょう。

 

 

 

結婚を機に「あなた色に染まります」どころか、「あなたの姓を名乗ります」ということに嫌悪する女性は私だけではないように思いますが・・・今後どんどん増えていくような気がします。

 

 

13.年の瀬に思うこと

 

 

 

今年もあと残すところわずかとなりました。

 

皆さんの一年はいかがでしたでしょうか?

 

 

 

年を追うごとに一年が早く感じるようになるのは、誰しもが同じようですが、本当に今年もあっという間でした。

 

 

 

子どもの頃は、年末が近づくと心がワクワクしていたのに、大人になるとただ慌しいだけになってしまい、寂しい気がします。

 

 

 

特に、クリスマスはサンタクロースを信じていた子どもの頃は本当に楽しみでした。

 

両親がいつまでも子ども扱いしていたかったようで、お恥ずかしいことに私は小学校3年生くらいまでサンタクロースの存在を信じていました。

 

周りにサンタなんかいないよ、と言われても信じ続け、25日の朝、枕元に望んでいたプレゼントが置かれているとうれしくてたまりませんでした。

 

ところが、ある年、そのプレゼントにメッセージカードが付いていたことがあり、そのカードは前の日、家のどこかで見かけたカードと同じものだったのです。

 

書いてある字も見覚えのある父の字に良く似ていて、もう誤魔化しのきかない年になっていた私はピンときてしまいました。

 

薄々感じていたものの、確信を得た時はやはり淋しい気持ちになりました。

 

そして何より、サンタクロースが本当はいないというショックより、サンタクロースを信じなくなった娘を見る父が寂しそうだったことがとても悲しかったのを思い出します。

 

 

 

私も親となり、子どもたちのサンタクロースになり続けた時期がありました。

 

事前に子どもたちの欲しい物を調査し、こっそりと準備するのですが、彼らの要求は年々エスカレートし、どこへ行っても完売の人気商品を24日の晩までに入手するのに四苦八苦したこともありました。

 

よくよく考えると馬鹿馬鹿しいことなのかもしれないのですが、子どもたちがクリスマスに向けてワクワクしている姿を見て、自分の子どもの頃を思い出し、親のほうもワクワクしてしまうのです。

 

子どもが喜ぶ姿を見るのが、親にとってはクリスマスの醍醐味となり、幸せな気持ちになっていたのです。

 

 

 

今では息子たちも成長し、我が家にもサンタクロースは来なくなりました。

 

もう、年の瀬の忙しい最中にプレゼント探しに奔走する必要もなくなりました。

 

12月にもなると街中がクリスマス一色になり、そんな時、サンタクロースを待ちわびていた頃やサンタクロースに成りすましていた頃を懐かしく感じ、恋しくもなります。

 

 

 

大人になると、現実ばかりが押し寄せて来て夢をみることがなくなってきたような気がします。

 

 

 

そういえば、父は年末になるとその年の『我が家のニュースベスト10』を書き出して、その一年を振り返っていました。

 

そうやって来年はどういう年にしたいとかを話題にし、目標や夢を描いたりしたのです。

 

 

 

年の瀬を迎え慌しくなってきましたが、こうやって改めてこの一年を振り返り、新しい年への希望を託すのもいいかもしれませんね。

 

もちろん、私の今年のニュースベスト10に、この『朝の随想出演』はランクインすることでしょう。

 

 

 

来年は、どんな一年が待ち受けているのでしょうか…良い年でありますように…。

そして、皆さんも良い年をお迎えください。

 

14.大器晩成

 

 

 

 趣味は何ですか?と聞かれると、子どもの頃からの唯一の趣味だったダンスが職業となった為、答えに困ります。

 

 

 

強いて言えば、映画や舞台鑑賞が好きです。

 

最近は新潟市内にも映画館が増え、行きやすくなりました。レンタルビデオなどで気軽に家でも映画が鑑賞できるようになりましたが、私は映画館でストーリーにどっぷりと浸り、観るのが好きです。

 

 

 

私の父は若い頃、映画を観に行くのが唯一の娯楽だったそうで、遠く離れた映画館にせっせと通ったそうです。それも、映画好きな同年代の甥の影響で、ひそかに映画俳優に憧れていたこともあり、東京の俳優養成所にまで進みました。

 

しかし、下積み時代の生活苦で挫折し、泣く泣く新潟に戻ったとのことです。

 

 

 

同じく父の兄である、舞台鑑賞好きの叔父がいて、私は東京にいた頃色々な舞台を観に連れて行ってもらいました。

 

ある日、父の映画好きに影響を与えていた甥の息子が、俳優の卵で、所属している劇団のお芝居に出るから観に行こうと、新宿の小さな劇場に一緒に観に行った時がありました。

 

親戚とはいえその日が初対面の彼は、まだ無名で、脇役として演じていたのですが、背が高くなかなかの美男子で、とても輝いて見えました。

 

お芝居の内容はほとんど頭に入らず、私は父の俳優への夢もこんな感じだったのかな、と思いながら、台詞は少ないものの、一生懸命演技している彼に見入ってしまいました。

 

 

 

叔父はその時、「彼は劇団員として20代半ばにもなりながらなかなか芽が出ないけど、きっと大器晩成型なのだよ。うちの親戚は皆、大器晩成型だからあなたも辛抱して頑張りなさい。」と言ってくれました。きっと、まだ先の見えないフラメンコへの不安を抱えていた私への励ましとして、こうやって夢に向かって頑張っている身内がいるのだよ、と叔父が連れてきてくれたのでしょう。

 

父が果たすことのできなかった芸の道で生きていきたい、そして同じく芸の道に真摯に向かっている彼の姿に勇気をもらいました。

 

 

 

叔父の言うとおり、あの時脇役だった無名の彼は少しずつ知名度を上げ、やがてNHK大河ドラマの主役の座を得るまでになりました。

 

それが、あの独眼竜正宗役の、渡辺謙さんです。

 

 

 

その後、色々な苦難な道はあったものの、今や日本を代表する俳優となりました。

 

親戚とはいえ、もう遠い別世界の存在のスターとなってしまいましたが、テレビや映画に出演しているのを見るとあの頃のことを思い出し、胸が熱くなります。

 

 

 

そして何より喜んでいるのは、若き頃父と映画に夢中になっていた謙さんのお父さんでしょう。

 

 

 

彼を世界に知らしめた映画『ラストサムライ』を映画館に観に行った時は、涙が止まりませんでした。

 

その時、もう亡くなっていた父、そして謙さんを一生懸命応援していた叔父にこの映画を見せてあげたかった思いと、それまでの彼の努力を思っただけで胸がいっぱいになりました。

 

 

 

今となっては私なんぞハリウッド俳優とはとうてい比べものになりませんが、大器晩成の家系を信じ、芸の道にこれからも精進していきたいと思います。

 

 

15.アラフォー世代

 

 

 

 フラメンコの教室を始めてからかれこれ24年、沢山の生徒たちと交流し、そのほとんどが女性相手の中、いつの間にかほとんどがアラフォー世代となってしまいました。

 

 

 

アラフォーとは、around 40の略で、40歳前後の、主に女性たちのことをいいます。

 

四捨五入すると40歳、今で言うと1964年生まれから1973年生まれまでの人達をさします。

 

昨年の流行語大賞にもなり、その世代の人達の興味深いライフスタイルを表現し、雑誌やマスコミなどでは特集が組まれるほどになっています。

 

 

 

1986年の男女雇用機会均等法のもとに社会進出した女性たちでもあり、積極的に仕事を持ち、キャリアを重ねていく中、「結婚はそのうちに」と先延ばしにしていた人が多くなってきた世代でもあります。

 

昔のように、結婚か仕事かを選択することもなく、自由に自分の人生を選択し、自立できる女性が増えてきたのもこの世代からのような気がします。

 

 

 

それゆえ、仕事、結婚、出産など、女性の人生の転機を保留状態にしていることが、今のこのアラフォー世代にとっての悩みでもあり、決断の時期でもあるようです。

 

 

 

私の周りのアラフォーたちも、最近はもっぱらこの話題が中心です。

 

 

 

昔はクリスマスケーキに例え、女の適齢期は24歳、25歳を過ぎると売れ残りと言われていたのに、彼女らはほとんどが独身で、売れ残りどころか、皆まだ若々しく、活き活きと人生を謳歌しています。

 

それなら、もう結婚する気はないのかな、と思うと、ほとんどの人が「いい相手がいたら…」と言うのです。

 

いい相手の条件とは、私が20代の頃は、3高と言って、高学歴、高収入、高身長、と結婚相手によって人生が変わる、という考えでの理想でした。今のアラフォーたちは、3低と言って、低姿勢、低リスク、低依存、と、ありのままの自分を受け入れてくれる人、つまり、相手に合わせる結婚なんかまっぴらごめんのようです。

 

だからといって、理想のハードルを低くしているわけでなく、なかなか「いい相手」とはめぐり合えないようです。

 

 

 

それなら、結婚しない人生もありなのでは…と思うのですが、そろそろ出産へのタイムリミットを向かえ、このまま独りで老後はどうしようか、と考える時期でもあるようです。

 

 

 

つまり、女性としての人生の岐路に立ち、これからのことを考える転換期でもあるのでしょう。

 

 

 

アラフォー世代の独身は、女性だけではなく、私の周りには男性も結構います。

 

彼らに結婚について尋ねると、同じようにほとんどの人が「いい相手がいたら…」と言います。

 

出会っていても、心がときめかない、とか、理想の人がいない、と言うのですが、それはやはり今の生活に大して不満も抱いていなく、気ままなほうが生きやすいというのが本音なのでしょう。

 

 

 

私も今、ぎりぎり最後のアラフォーです。

 

周囲にあおられ、「ま、この辺で…」という気持ちで20代に結婚し、30代は髪振り乱して子育てに追われながら過ごした私から見ると、今の彼女らが楽しそうで眩しく見えるのは、隣の芝生が青く見えるのと一緒なのでしょうか?

 

 

16.アンチエイジング

 

 

 

 女性ばかりが集まれば、必ず話題になるのが美容の話しです。

 

 

 

肌のきれいな人を見れば、どういう手入れをしているのか聞き出したり、使っている化粧品を聞いたりします。雑誌やテレビでの美容にいいという情報は敏感にキャッチします。

 

 

 

これを食べると「きれいになる」、「痩せる」という情報が流れるとその食品などはすぐに売り切れ続出になったりします。

 

有名タレントが「これ使っています」と紹介すると、店頭に商品が並び、すごい売れ行きになります。

 

美容にいい、と言われれば食品であれ、化粧品であれ、道具であれ、運動であれ、何でも試してみたくなる貪欲さは女性のほとんどが持っているのではないでしょうか。

 

 

 

そんな話しを聞きつけた男性の知人が、女の人がそういうことにお金を使うことが理解できない。

 

どうして年より若く見られたいのかわからない、などと呆れられたことがあります。

 

 

 

年を重ねることは色々な経験を積むことができ、それは大きな自信でもあり、若い時に戻りたいと思っているわけではないのですが、ただ単にそのスピードを緩めたいと思っているのです。

 

 

 

できることなら、外見はシミやシワなど増やしたくない、贅肉もつけたくない、体力も衰えたくない、いつまでも若々しくきれいでいたい、と、女性の欲は無限大です。

 

 

 

つまり、老化に抵抗するという意味の『アンチエイジング』は女性の永遠のテーマなのです。

 

 

 

最近の女性好みの男性像が「ちょい枯れオヤジ」というのをご存知でしょうか?

 

「ちょっと枯れたオジサン」の略で、渋くて落ち着いていて、威圧感がなく、人生経験を積んだ上での倦怠感をかもし出した中高年以上の男性のことをさし、決してマイナスイメージではなく、素敵な男性として支持されているのです。

 

 

 

女性に「枯れる」とは絶対に認めたくない言葉が、男性にはほめ言葉になるのですから、老化への意識の違いが男女異なるのは当然でしょう。

 

 

 

仕事柄、女性に囲まれていると、幅広い年齢層の中で女性が求めているものが共通であることをつくづく感じています。

 

誰もが『老いる』ことから少しでも遠ざかりたい、いつまでも生き生きと美しく健康でありたい、

 

と思っているのです。

 

 

 

スペインでは、おばあさんになっても美しくお洒落をしている人が多く、道すがら素敵な年配女性にハッとすることが良くあります。

 

日本人にありがちな、年齢にそぐわない若作りや、高齢者特有の暗い地味な色合いの服装などは見かけません。

 

髪の色は白や銀色になっていても、それに合ったきれいな色の服を着て、美しく化粧をして、背筋を伸ばし、凛としている姿の、年齢を超えた美しさには惚れ惚れしてしまいます。

 

 

 

歳を重ねていっても自分の個性を際立たせるセンスを持ち、いくつになっても美しく輝いていたいものです。

 

 

 

男性にとやかく言われようと、老化に生涯、対抗していこうではありませんか。

 

 

17.食の大切さ

 

 

 

 両親が共稼ぎで、特に母は看護士として働いていた為、時間が不規則で、中学くらいの時から我が家の夕食の支度は私の役目でした。

 

部活などをしていると帰りが遅く買い物はできないので、宅配で料理の材料が家に届くサービスを利用し、家に帰ると玄関先に置いてある材料を箱から出し、レシピを見ながら作っていました。

 

おかげで、まるで料理通信講座のように、自宅にいながら色々な料理のレパートリーが増えました。

 

 

 

そのうち、レシピどおりに作るのが面倒になり自分でアレンジしたり、付け加えたりしていく楽しさも増え、勉強もせず、毎日料理ばかりしていました。

 

毎朝、お弁当も自分で作り、友人たちにも「お母さん、料理上手ね。」と言われるのもまんざらでもなく、そういうことにしておきました。

 

そして何より、未熟な料理を両親が喜んで食べて、褒めてくれることが、上達の秘訣でした。

 

 

 

その後も、どういう生活環境になっても私の料理担当は常につきまとい、今ではスペイン料理の店まで持つようになってしまいました。

 

 

 

スペインに行った時、私のフラメンコの師匠が男性でありながらものすごい料理好き、そして料理上手で、レッスンが終わると料理を教わるという毎日でした。

 

気が付くと、教室から近い私の家はクッキングスタジオと化し、そのまま試食会を兼ねたお食事会となりレッスン帰りの子どもたちのランチルームとなっていました。

 

大勢で食べる食事は楽しく、おいしく、スペインにいる間は食べることに不自由することなく、大変恵まれていました。

 

 

 

食育ということが最近よく言われるようになりましたが、食べるということは本当に生きていく上で大切だということが良くわかります。

 

 

 

現代の子どもたちは、塾や習い事で忙しく、親たちも仕事が忙しく時間が不規則になり、家族揃って食事する機会が少なくなった家庭が多いと言われています。

 

個食といって、ひとりで食事をする子どもがいるらしく、それでは食事も楽しくおいしいものとは思えないでしょう。

 

 

 

そして、学校の給食の時間があまりにも短いことを聞いてびっくりしたことがあります。

 

時間に追われて急いでとらなくてはならない食事なんて、食育とは相反することなのではと疑問に思います。

 

 

 

作る側から言わせていただくと、やはり食事はゆっくりと楽しく味わってもらいたい。

 

それによって、身も心も豊かになってもらえたら、料理するほうももっと楽しくなります。

 

 

 

日本は本当に食が豊かな国です。

 

それゆえ、食への執着が薄れつつある現代の子どもたちの為にも、作ってくれる人への感謝と食べられるというありがたさを感じ、もっとゆとりをもって、楽しく、おいしく食事ができる環境を心がけたいものです。

 

 

 

そのためにも料理の腕ももっと磨かなくてはなりませんね。これからも頑張ります。

 

 

18.親離れ子離れ

 

 

 

 我が子が生まれた時、自分はこの世で誰よりも幸せなのでは、と思えるくらい幸福感に包まれていました。しかし、現実は体力と気力との戦いの子育ての始まりです。

 

二歳違いの二人の男の子の、仕事を持ちながらの育児は想像以上に大変でした。

 

 

 

そんな中、いつも「子育てから早く解放されたい。」と思うがあまり、一日でも早く自分の手元から飛び立つ日を待ちわびながら子育てをしていました。

 

 

 

そのためにも、小さいうちから人生の選択肢をひとつでも多く持たせてあげたい、好きなことを見つけて欲しいと思い、可能な限り色々なところへ連れて行き、色々なものを見たり聞いたり経験できる環境を与えてきました。それに親も便乗してたくさんの思い出を作りました。

 

 

 

そうなると、勉強は二の次、塾や習い事は本人の希望がなければあえてさせず、学校を1ヶ月も休ませスペインに連れて行ったこともありました。

 

できる限り余暇を家族と過ごす時間に費やせるように、テレビゲームは絶対に買わない、個室を作らない、子ども専用のパソコンも携帯電話も与えない、どうしても必要なら自分で自立してから持てばいい、と言い続け中学生までになりました。

 

 

 

育児に奔走している頃は、先が長く感じていたのに、過ぎてみるとあっという間です。

 

あんなに大変だった時期が懐かしく、いとおしく感じても、もう戻ることができないのです。

 

 

 

早く自分の好きな道を見つけて欲しい、と望んでいたとおり、長男は中学卒業と共にギタリストへの道を目指しスペインへと単身で旅たっていきました。

 

同級生たちは当たり前に高校へ進学していく中、わが息子が違う道を選択した時はさすがに戸惑い、悩みました。できることなら、高校ぐらいは進学して欲しいという思いもありました。

 

 

 

しかし、彼の人生は彼のもの。今まで育ててきたのはこうやって彼らが自立への道を踏み出すためにしてきたことなのだから、と思い直し、勇気を出して送り出したのです。

 

 

 

スペインまで見送りに行き、我が子を置いて日本に戻る時は、生まれた時の喜びと小さくて可愛かった頃を思い出し、つらく悲しく身を切る思いでした。

 

こうやって、自分の手元から飛び立つ日を待ちわびていたのに、いざその日が来ると寂しくて涙が止まりませんでした。

 

そんな姿を見られないように、出発の朝、息子がまだ眠っているうちに部屋を出た時が、私の決死の子離れの時でした。

 

 

 

親がいつまでも子ども扱いしていたくても、親離れはごく自然にあっという間にやってきます。

 

しかし、その時親がきちんと子離れができるかというと、その方が難しいのかもしれません。

 

 

 

その後、時々帰国する息子とは同じフラメンコという土壌に立ち、親子の関係を越えた付き合いができるようになりました。そして父親とは、同じギタリストしての道を選んだことで、距離は離れていてもより一層身近な存在となっているようです。

 

 

 

そして現在、中学三年の次男も兄に早く追いつきたいと、この春スペインへと旅たとうとしています。

 

いよいよ完全なる親離れ子離れの時が近づいてきました。

 

 

19.ピラティス

 

 

 

 数年前くらいから、私の周りで次から次へと『ぎっくり腰』になる人が出てきた時がありました。

 

そして、腰痛を訴える人がとても多いことに気付きました。

 

 

 

人間は二本足で歩き、全身の体重を支えている為、長年それを支えている身体の中心である腰に負担がかかるのは無理もありません。

 

長年の生活習慣による、偏った姿勢や歩き方によりいつの間にか体が歪んでしまうのも原因でしょう。

 

女性は出産などで、骨盤が開き歪みやすくなり、産後に腰を痛める人も多いようです。

 

 

 

私自身、腰痛とは全く縁がなかったのですが、あまりにも周りに腰を痛めている人が多く、もしそうなったら私の場合、踊れなくなる、つまり仕事ができなくなる、それは致命傷です。

 

そうなってからでは遅い、いつまでも自分の身体を過信しているわけにもいかない、と、一念発起したのです。

 

それが今から3年前、『ピラティス』を初めたきっかけです。

 

 

 

ピラティスとは深い呼吸にあわせて骨盤・背骨・体幹を調整し、身体のコアの筋肉を強化していくエクササイズのことを言います。1990年初め頃、ドイツ人のジョセフ・ピラティスという人が戦争で負傷した兵士たちへのリハビリ用として考案したのだそうです。

 

その後アメリカなどでダンサーの技術向上やプロポーション維持のために活用されるようになり徐々に広まりました。

 

エアロビクスやウエイトトレーニングなどハードなものではなく、正しい呼吸法や姿勢を身につけ、誰でもできるエクササイズです。

 

 

 

雑誌などで、ハリウッド女優やバレリーナやスポーツ選手が、身体づくりの為に『ピラティス』をしているのをチラホラ見かけ、興味はあったのですが、その頃はまだ教えているところを探すのにひと苦労でした。

 

私の場合、身体の故障を防ぐためが第一ですが、踊っているうちについた身体の癖や歪みを直して、なおかつ身体のラインも整えられたら、という希望もあり、リフォーマーというピラティス専用の台に乗って行う本格的な個人レッスンを受けはじめました。

 

 

 

よくよく考えてみたら、フラメンコ以外のことで人から何かを教わるということは20数年ぶりくらいのことで、とても新鮮でした。

 

そして、教わる側の立場になると色々と気づくことがあり、教えることへの勉強にもなる有意義な時間でした。

 

その上、自分の身体の弱い部分や、身体の軸への意識が高まり、今現在も全くけがも故障もなく、健康な身体を維持することができています。

 

 

 

私のフラメンコの師匠は、長年メタボ体型でハードに踊っていた為、腰痛を患い、いよいよ手術をしなくては治らない状況でした。

 

そんな腰にコルセットを巻き、だましながらレッスンを続け、ある時アメリカへ振付の仕事に行った時、ぎっくり腰になり、歩けなくなるくらいの激痛におそわれたそうです。

 

その時アメリカでピラティスをすすめられ、個人レッスンを受けたら腰痛が改善され、スペインに帰ってから手術の日程が決まっていたのをキャンセルしたそうです。

 

 

 

今では日本でもピラティスの認知度が高まり、新潟にも教室が増えているのが論より証拠です。

 

 

20.旧知の仲間たち

 

 

 

 先日、高校時代の仲間たちとの飲み会がありました。

 

卒業してから各々の道に進み、20代、30代の頃は家庭を持ったり子どもが小さかったりでなかなか時間が合わなく疎遠になっていた人もいたのですが、40代になってから集まる機会が増えてきました。

 

 

 

10代後半に会って以来、40代となり久々に集まった時は、あまりにも外見が変貌を遂げていて腰が抜けるほど驚かされた友人もいました。

 

申し上げにくいのですが、特に男性は髪型により見た目年齢が判断しにくくなってしまうようです。しかし、少し話を始めると一気に20数年の歳月は逆戻りし、高校時代と同じ感覚になるのが不思議です。

 

あの頃はこうだった、あの人は今どうしてる、こんなこともあったね、と話は尽きません。

 

箸が転がっても可笑しかった10代の頃と同じように、笑いが止まらないのです。

 

 

 

そんな中、それぞれが思春期の子どもを持つ親としての悩みや、仕事での悩み、健康の悩みなど、シビアな話しも始まります。

 

それに共感しあい、励ましあい、そしていつの間にか悩みすらすべて笑い飛ばしてしまっているのです。

 

不思議と、その頃の仲間たちには見栄や世間体など関係なく、気負いなく何でも話せるのです。

 

社会に出てからの友人ではなく、まだ同じ学生という立場で知り合い付き合ってきた友人だからこそ、こうやって本音で付き合えるのかもしれません。

 

 

 

私の高校時代は毎日学校へ行くのが楽しくて仕方がありませんでした。

 

携帯電話などはなく、友人とのコミュニケーションは会話のみ、とにかく学校に行かないことには話したいことや聞きたいことが伝えられないのですから、勉強目的というより友人と会うために学校へ行っていたようなものです。

 

そして今でも、その頃の友人とはメールよりも電話、電話より時間があれば会って話しをする、という付き合いが続いているのです。

 

 

 

学生時代から、私の家にはアポイントなしで自然に仲間が集まることが多く、そこへ行けば誰かがいる、という安心感がありました。特別な用事があるわけでもなく、ただ一緒にいてたわいもない話をしているだけで楽しかったのです。

 

それは、面白いことに現在はうちの息子たちにより受け継がれています。

 

我が家には毎日のように、息子の友達が集まってきます。

 

部屋の中から、大きな笑い声が聞こえるとあたりまえのことながらホッとします。

 

 

 

現在の子どもたちはメールで会話をするのだそうで、それでは大声で笑いあい、相手の笑顔を見たりできなくてつまらなくないのでしょうか?

 

人とのコミュニケーションをとることがあまりにも便利で簡素になっているがために、むしろ本当の友人、仲間が作れなくなっていくような気がします。

 

 

 

10代の頃に心から信頼できる友人を作れることは、生涯の宝となります。

 

この先、それぞれの道に進み、大きな壁に立ち向かわなくてはならない時、こうやって培った旧知の仲間たちが何よりも心の救いになることは間違いないのですから…大切にしていきたいですね。

 

 

21.出し惜しみしない

 

 

 

 昨年、ある雑誌に載っていた有名な脚本家のエッセーを読んで思わず共感したことがありました。その方が、先輩である同じ脚本家の方からアドバイスされた『出し惜しみしない』という生き方です。

 

 

 

その脚本家の方々はお二人ともNHK大河ドラマの脚本を手がけたことがあり、一年間毎週放送される、とてつもなく長いお話を生み出すのに、とにかく思いついたこと、書きたいことは後回しにせずに書くこと、これはそのうちに、ということは絶対にしない、ということです。

 

そうやって出し惜しみしなければ、後で窮しても必ずまた開けるというのです。

 

 

 

私の教室では一年半に1回、ほとんどの生徒が参加する発表会があります。

 

大きな舞台でそれまでの練習成果を披露する大イベントなのですが、生徒たちそれぞれのグループの踊りを振付し構成し、衣裳や照明などのプランを考え、本番までのスケジュールを調整し、間近になると想像を絶する忙しさになります。

 

生徒たちの発表の場といえども、私の作品の発表の場でもあり、自分自身の結果が如実に表現される舞台ともなります。

 

そんな中、私はいつも生徒にも自分にもついつい付加をかけてしまう傾向があるようで、少々大変そうでもその日までには何とかなる、目標は高いほうがいいと、限界ギリギリまでのことをしてしまい、その舞台が終わると、すべての力を出しきり、頭の中が空っぽになってしまいます。

 

その直後は、もう振付どころか次の発表会なんて考えられないくらい無の状態になり、これが限界と思ってしまうのです。

 

ところが不思議なことに、これを再び繰り返し、何とか次の発表会もむかえ、これをかれこれ20年ほど続けています。

 

 

 

充電器は空っぽになってから充電したほうが持ちがいいといいますが、人間も同じなのかもしれません。

 

思い浮かんだアイデアや知恵をどんなに使い、空っぽになっても、またそれを充たそうと力が湧き、やがて原動力となり次へとつながっていくのです。

 

 

 

それは普段の生活にも同じことが言えるでしょう。

 

そのうちに、と先延ばしにしていると本当にできなくなってしまうことがあります。

 

できることなら、思い立ったらすぐに行動した方が、その時大変であっても必ず次へと道が開けてくるのです。

 

あの時こうしておけば良かったと思っても逆戻りはできないのです。

 

 

 

『出し惜しみしないこと』は人間の生き方に通ずるのではないでしょうか。

 

 

 

ちょうど、この言葉に出会った直後に、この『朝の随想』の担当の方にも「お話したいことから書いてください。これはあとで、というと後悔します。」とアドバイスをいただきました。

 

先にも話したように、私の性格上、思いついたらすぐなので、出し惜しみはしていないつもりなのですが、まだまだ人生経験が足りないようで、常に次へと行き詰まっております。

 

 

 

しかし、窮しても必ず道が開けることを信じ、少ない経験をもとに知識をふりしぼり、あとの残りを頑張りたいと思います。

 

 

22.スペインの春祭り

 

 

 

 春の訪れを感じる頃になると、スペインの春祭りを思い出します。

 

毎年、セビリアで行われる世界でも有名なお祭り『フェリア・デ・セビージャ』です。

 

 

 

その前にキリストの復活を祝う『セマナサンタ』と言われる宗教色の強い聖週間があります。

 

このお祭りは一週間続き、学校も休みになり、町はキリストやマリア像を担ぎ出した行列と見物客でいっぱいになります。そのあと一週間あけてから、だいたい4月の中頃に『フェリア・デ・セビージャ』が始まります。

 

 

 

つまり、この時期は一ヶ月のほとんどがお祭り気分で過ごすことになります。

 

特にフェリアの前は、その準備をする買い物客で町はごった返し、賑やかになります。

 

 

 

はじめてこのお祭りを経験した時は、あまりの規模の大きさにびっくりしてしまいました。

 

普段は空き地となっているところがフェリア会場になるのですが、その敷地面積は120平方メートル、東京ディズニーランドとディズニーシーを両方合わせたよりも広いのです。そこに1000軒以上のカセータといわれる仮設小屋が立ち並びます。

 

カセータにはオーナーがいて、そのオーナーの招待客しか入ることができないのですが、中には観光客相手の一般客用のカセータもあり、そこには誰でも入ることができます。

 

セビリアのフェリアは人気が高く、新しくカセータを所有したい人たちが900以上も空き待ちをしていると言われています。

 

カセータの中には厨房やバーやトイレが完備され、椅子とテーブルが並び、踊るスペースも確保され、仮設小屋とはいえ、そこで食事もでき、ずっと過ごせる快適な空間となっています。

 

 

 

そのカセータの立ち並ぶ会場の正面入り口にはそのお祭りのシンボルとなる大きな門が建ちます。

 

初日の午前0時にはその門とカセータの電飾が点灯され、もの凄いどよめきの中、祭りが始まります。

 

 

 

フェリアは一週間、昼夜問わず、歌い、飲み、踊るお祭りです。

 

赤ちゃんからお年寄りまで、そのほとんどの女性たちはこの日の為にフラメンコ衣裳に見るようなフリルたっぷりの華やかな衣裳を新調し、着飾って出掛けます。

 

男性の中には、腰高のズボンに短いジャケット、ウエストに腰巻きをしたスペインの伝統的な衣裳に身を包み、つばの広い帽子をかぶり、馬車や馬に乗り会場に現れる人がたくさんいます。

 

その馬の後には着飾った女性を乗せ、その光景はおとぎ話のようで、とても素敵です。

 

 

 

そして、地元の曲である『セビジャーナス』という曲に合わせて、歌い、踊り、老若男女が楽しいひとときを分かち合う、夢に包まれた、非日常の空間となります。

 

 

 

セビジャーナスという踊りは、うちの教室でも入門した人が最初に習う踊りですが簡単なようでいてなかなかさまになるまでに日数がかかります。しかし、セビリアの人達は実に身のこなしが上手く、小さい子どもからお年寄りまで、皆が楽しそうに踊っています。

 

 

 

他にも屋台や、遊園地もあり、徹底的に楽しむ要素が満載のお祭りです。

 

 

 

こんな非日常を味わい、祭りが終わるとまた普段の生活に戻るこのメリハリのある生活が、スペイン人たちの明るく陽気な性格を維持する秘訣なのかもしれません。

 

 

23.終わりなきフラメンコ

 

 

 

 私がフラメンコを始めたきっかけは踊りからでしたが、本来のフラメンコは踊りだけではない、もっと重要な役割を持つ、カンテと言われる唄と音楽を奏でるギターがあります。

 

この、踊りと唄とギターの三つが一体となってフラメンコが表現されるのです。

 

 

 

なので、踊る人だけがいてもどうにもならなく、録音された音楽を流してそれに合わせて踊ることはほぼ不可能で、生のギター伴奏と歌い手がいてこそ表現されるものなのです。

 

 

 

我が家には3人のギタリストたちがいます。夫と、まだ見習い中の息子たちです。

 

なので、私の場合生伴奏で踊ることに不自由はなく大変恵まれています。

 

というのも、フラメンコギターは他のクラッシックやジャズやフォークなどのギターとは違う奏法があり、リズムも特有で、ましてや楽譜もないので、ギターが弾けるからと言ってもフラメンコの伴奏が出来るわけではないのです。

 

 

 

楽譜がないということは、曲を全て耳で聴き取り、目で見てとるわけで、あとはギタリスト自身のセンスとテクニックにより表現されるのです。

 

ピックは使わず、自分の指と爪でかき鳴らすので相当な練習量が必要で、爪の手入れにも随分神経を使っているようです。

 

 

 

というわけで、ギタリスト人口の中でもこのフラメンコギタリストは数少なく、踊り手の数に対して圧倒的に不足しているのが現状です。

 

その中でも、新潟という地方で生のギター伴奏で踊れるというのは本当に恵まれている気がします。

 

 

 

歌い手はもっと少なく、新潟ではプロの歌い手はいません。

 

必要な時は東京から歌い手を招くのですが、東京でも踊り手の数に比べると全く不足していて、スケジュールを抑えるのに大変苦労しています。

 

フラメンコの歌は節回しが独特で、もちろんスペイン語で、これも楽譜はなく耳で聴き取り覚えていくので日本人が習得するのは非常に難しいのです。

 

最近は私も少しずつ歌を覚えて、下手ながらも生徒たちが踊る時に歌えるように心がけていますが、プロの歌い手にはとうてい及びません。

 

 

 

そう考えると、踊りがこの三つの中では一番簡単にできそうなのですが、これもなかなか難しいのです。ここまで踊れたからおしまい、というのがなく、振り付けも千差万別でリズムはいくらでも複雑になり、表現の仕方も踊り手のセンスによります。

 

しかし、それが長年飽きることなく続けている理由の一つであり、奥深く終わりがないのがフラメンコの醍醐味なのかもしれません。

 

 

 

新潟という場で今までなんとか続けて来られたのも、このフラメンコの魅力にとりつかれた私自身だけでなく、我が家のギタリストたち、そしてそれを理解してくれる生徒や愛好者たちの情熱のおかげだと思っています。

 

 

 

今改めて心から感謝し、大切にし、これからも終わりなきフラメンコと向き合っていきたいと思います。

 

 

24.中高年パワー

 

 

 

 私の母はある芸人のライブCDを知人からプレゼントしてもらい、それを聞いていつも大笑いして喜んでいます。

 

中高年のおばさんたちをネタにし、テンポよく毒舌と皮肉を語るのですが、何故かその言葉には大きな愛と温かさが満ちていて、皆を笑いの渦に巻き込んでいくのです。

 

 

 

若者の間では現在お笑いブームのようですが、中高年からも笑いを引き出し、生きる力を呼び起こしてくれる存在となっているようです。

 

 

 

身近な母をはじめ、私の周りには元気いっぱいの中高年がたくさんいます。

 

教室にも若い人には負けず劣らずバリバリとレッスンを受け、颯爽と踊っている年配生徒さんがいて、そのたくましさには感心させられます。

 

そして、何よりレッスン以外での世間話に耳を傾けると色々なことを知ることができる楽しさと喜びがあります。

 

 

 

ある中高年の生徒さんばかりのクラスに教えに行くと、お年寄りの介護の話や、健康維持の秘訣、庭の草花の手入れ方法、家庭菜園の話、旅行の話など、私と同年代の人からなかなか聞くことのできない話題でいっぱいになります。

 

楽しい話ばかりではなく、シビアな話もありますが、それでも暗く落ち込む様子もなく淡々と話し、皆が共感しあったり励ましあったりする様子にはたのもしさを感じます。

 

うれしいことに家庭菜園で作った無農薬の野菜をいただくこともあります。

 

 

 

何と言っても人生経験豊富で、すでに様々な境遇に出会いそれらを乗り越えてきた自信と打たれ強さがあり、これからの人生は何が起きても動じることなく、楽しく心豊かに過ごしたいと思えるのでしょう。

 

 

 

新潟の古町にある背の高いビルの一階にあるロビーは、中高年の女性たちの待ち合わせ場所として、平日の正午前にはおばさんでいっぱいになると母から聞いたことがあります。

 

それが母達の間では『ランチ族』といわれる人達で、正午を過ぎると皆目的地に向かいすっかりその場からいなくなるそうです。

 

そして、デザート、コーヒーおかわり付きの多少長居をしても平気な場所で、ゆっくりとランチをしながらおしゃべりをするのです。

 

皆、趣味や旅行に費やす時間の余裕を持ち、それぞれ話題も豊富で、話しが尽きないのでしょう。

 

そして、慌てて旦那さんの夕飯の支度に間に合うように帰宅するのだそうです。

 

 

 

なんとも羨ましい話しですが、この世代の方々は子ども時代には今のような豊かさを味わえず、高度経済成長の時期に家族の為に一生懸命働き、ようやく今になり自分たちのやりたかった趣味や娯楽を満喫できる時が来たのでしょう。

 

 

 

そうやって色々な経験を乗り越え、今楽しそうに笑っていられることが中高年パワーの源となっているのでしょう。

 

 

私の母を含む、周りにいるパワフルな中高年達にあやかり心豊かな人生を送れるよう、今は世の為人の為に頑張って働こうと思う今日この頃です。

 

25.生涯現役

 

 

 

 私の好きな小説の一つである瀬戸内寂聴さんの『いよよ華やぐ』というお話しがあります。

 

実際に存在した鈴木真砂女さんという俳人の人生を元に書かれたお話しで、90歳を過ぎても凛として華やぐことを忘れることなく現役を貫き通した真砂女さんと、その周りにいる同じく老いても社会に出て、活き活きと生活している女性たちの人生模様が書かれています。

 

 

 

会話の隅々に、まるで若い娘たちのような会話が出てきて、歳を重ねても尚まだ華やぎ続ける様はほほえましく、これを読んだ後は老いることの不安が消される思いでした。

 

そして何より、いくつになっても女性である意識をしっかりと持ち、自分に厳しく前向きに生きていく力は素晴らしく、少々天衣無縫な生き方も彼女の人生の彩りとなっているところが大変魅力的です。

 

 

 

他にも、歳を重ねても輝き続けているお手本となる女性がいます。

 

 

 

黒柳徹子さんのお話で、90歳を過ぎたお母様が入院先のベッドの上で顔にシワ伸ばし用のパックをしていたと言うことを聞きました。

 

他にも、テレビを見ながらソファに腰掛け足を持ち上げ腹筋を鍛えていたなど、歳を感じさせない行動の面白いエピソードがたくさんありました。

 

そして最後は大変穏やかに笑顔を浮かべて亡くなられたそうです。

 

 

 

作家の吉行淳之介さんのお母様である吉行あぐりさんも大変元気に長生きされている方で、90代になっても美容師という仕事を現役で続け、海外旅行に90歳を過ぎてから目覚めたそうでその身体と気力の元気さには驚いてしまいます。

 

 

 

このお二人ともNHKの朝の連続テレビ小説のモデルとなり、波乱万丈でありながら明るく逞しく生きた女性の人生模様に魅せられました。

 

 

 

フラメンコの世界でも生涯踊り続け現役を全うした人はたくさんいます。

 

ダンサーという、人の視線にさらされることが多い職業にとって老いることがつらい現実となる中、それを超越したものを身につけ、最後まで自分自身を表現しきれる素晴らしいダンサーには頭が下がる思いです。

 

 

 

今日で私の『朝の随想』出演は最後となりますが、色々な話をさせていただく中、改めてこれからの自分自身の生き方を考えることができる良い機会となりました。

 

世の中には様々な人生を背負った人達がいるということ、生きて行く上で避けることのできないことがあること、そしてそれにきちんと立ち向かって行かなくてはならないこと、それによってもっと良き人生が送れるのではと感じています。

 

まだまだ未熟ではありつつも、少しは成長できたかな?とも思っています。

 

 

 

今までつたない話をお聞きいただき本当にありがとうございました。

 

これからも、舞踊家として、母親として、女性として、そして人としてもっと成長できるよう、生涯現役を志し、いつまでも社会に貢献できるような人生を送りたいと思っています。

 

 

 

皆さんもお元気で素敵な人生をお送りください。

 

 

 

半年間、本当にありがとうございました。